淡路島の企業経営者の〈現在地〉を見つめる特集『いまを紡ぐ』。
3回目の記事にご登場いただくのは、淡路市で鋳造用の砂型製造を手がける株式会社岡田シェル製作所の専務・岡田将武さん(おかだ・まさたけ、45歳)です。
淡路島で生まれ育ち、スペインへの留学、大阪でのホテルマン時代を経て、家業へ。整理整頓すらされていなかった町の工場を、強い組織にすべく、ひとつずつ整えてきた岡田さん。
穏やかな笑顔で場を和ませるムードメーカーでありながら、話の端々には「なんとなく」を許さない、たしかな探究心がにじんでいました。

Profile 岡田将武(おかだ・まさたけ)
1981年、淡路市志筑出身。県営住宅で育ち、3人兄弟の長男として幼少期を過ごす。地元の高校を卒業後、関西外国語大学スペイン語学科へ進学し、在学中にスペインへ半年間留学。卒業後は大手ホテル運営会社に就職し、大阪で3年半、ホテルマンとして接客や店舗運営に携わる。退職後、岡山で鋳造の実務を学び、2008年に家業である株式会社岡田シェル製作所に入社。現在は専務として、社長である父とともに会社を率いている。
◼️ 「なんとなく」で、片付けない。
「『なんとなくそうなっているもの』って、たぶんこの世にないと思うんですよね」
岡田さんは、そう言って笑う。
信号機の色や配置。工場の中でモノが置かれる順番。会社という組織の形。そして、人の性格。そのすべてに、積み重ねられてきた理由がある——。
取材の冒頭、そんな考え方を紹介してくれた。

株式会社岡田シェル製作所は、淡路市で鉄やアルミの鋳造に使う「砂型」を製造する会社だ。シェル中子製造や塗型、組立から、フラン中子・主型造型・自硬性CO2型など、一般には聞き馴染みのない様々な種類の砂型の設計・製作までを一貫して手がける。目立たないが、自動車や家電をはじめ、私たちの身の回りにあるさまざまな製品の“カタチ”を支えている仕事だ。
専務としてその現場を率いる岡田さんの役割は、ひと言でいえば「整える」こと。
かつてはいわゆる「町工場」状態だったが、トヨタ生産方式を学びながら生産管理や品質管理の仕組みをつくり、工場の動線を見直し、日々、様々な改善を積み重ねてきた。
「派手なことは何もしてなくって。ただ、全ての物事についての『意味』を考えながら、ちょっとずつ整理してきただけです」
そう謙遜するが、ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。
でも、その積み重ねがあるからこそ、今の岡田シェル製作所がある。
◼️ 「いじめられっ子」だった原点。
岡田さんは淡路市志筑で生まれ育った。父は岡田シェル製作所の社長。ただし社長業とはいっても、当時は「営業一本」。トラックに乗り、船に乗って現場を飛び回る日々で、工場にはほとんどいなかった。
それでも家計は決して楽ではなかった。かつて志筑にあった県営住宅で、3人兄弟の長男として育った。
「うちは阪神・淡路大震災で仕事の7割ぐらいが飛んだ、って聞いて育ってるんで。小さい頃から『いつ潰れてもおかしくない』みたいな会話を、当たり前に聞いてました」
そんな環境の中でも、幼い頃は自然の中を駆け回る活発な少年だった。ところが中学に入ると、他の地域から来た生徒として、いじめの対象になった。そのストレスで円形脱毛症になったこともある。
「しんどかったけど、学校には行ってましたね。でも、今から振り返ると、あの経験があったから、人の痛みがわかる人間になれたのかなとは思うよね」
自分に向けられる視線や、相手の表情の変化に敏感になったのは、この頃からだった。ただし当時は、そうして周りの空気をうかがいすぎるあまり自分を出せず、自分自身を苦しめるストレスの種になった。
高校は地元の進学校へ入学。真面目に授業を受けながらも、どこかで「みんなと同じ」であることが美徳とされることに窮屈さを感じていた。
初めてその窮屈さに反発したのは、大学進学を控えた頃。海外の文化が好きで、外国語系の大学に進もうと考える中で、周囲の同級生が〈外国語と言えば英語〉を学ぶ道を選ぶ中、岡田さんは関西外国語大学のスペイン語学科に進学を決めた。
「なんでスペイン語?ってよう聞かれるんですけど、単純に、みんなが選ぶような当たり前が嫌やったんです。それに加えて、スペイン語は世界での使用率も比較的高い。ちょっとひねくれてたんかもしれないですね」

◼️ スペインで知った、「ちっぽけな自分」。
大学時代、最も大きな転機になったのが、半年間のスペイン留学だった。
最初は、うまく話せるか自信がないことや、日本人らしい奥ゆかしさから、物静かに授業を受けていた。だが現地の先生から「なんであなたはもっと自己主張しないの。あなたにはあなたの考えがあるでしょう?うまく話せないのなら尚更、もっとはっきり、思ったことを言いなさい」と言われ、目が覚めた。
日本人らしい奥ゆかしさは、裏を返せば「思ったことを言えない」ことでもある——。そう気づかされた出来事だった。
ホームステイ先では、実の息子のように可愛がられたことや、他国から集まった周囲の留学生たちが、よりうまく話せる英語ではなく、共に勉強中であるスペイン語で会話をしている光景にも刺激を受けた。
「彼らともっと話したいし、みんなのように自分の気持ちをはっきりと言う方がスッキリするってことに気づき始めたんです。言わないからこそ、関係が築けない。それなら、思ったことをまっすぐに言える人間になろうって決めた」
中学時代に受けたいじめから、人の視線や評価を過剰に気にするようになっていた。でもその癖が、留学先での経験を通じて、少しずつ「吹っ切れて」いった。
◼️ ホテルマン時代に学んだ、「合わせる」ということ。
同じく大学時代に打ち込んだのが、居酒屋でのアルバイトだった。
常連客との会話や人と接する楽しさに気づき、飲食店を運営する上での段取りや回転効率の重要性を考えるようになった。
「それでサービス業に就職したいなと思って、大手ホテル運営会社に入社しました。別に内定をもらってる大手飲食チェーンもあったんだけど、すでに完成されている大きな会社より、いま勢いがあってこれから伸びていく会社の方が、課題解決のノウハウや経験を得られるはずやと思って。いずれ実家の中小企業に戻る自分にとっては、そっちの方が面白いんちゃうかなって」
入社後は、大阪で新規開業に携わりつつ、フロント業務から価格設定、稼働率や予算の管理までを一貫して担当した。3年半の在籍期間で、最も印象に残っているのは、支配人からのある指摘だった。
ある程度働き続ける中で、自分なりに「こうすればうまくいく」という接客の型を作り、その通りに実践していた。しかしある時、支配人に声をかけられた。
「それ、違うぞって。ホテルスタッフに話しかけてほしいお客さんもいれば、放っておいてほしいお客さんもいる。自分が正しいと思うやり方を押しつけるんじゃなくて、相手に合わせるのが本当のサービスなんやって」
自分本位だったサービス観を見直す、大きな転機になった。
「そこから、もっと人を見なあかんな、と思うようになりましたね」
これがのちに、かつて自分を苦しめた「周囲をうかがう癖」が、強みとして生き始めるきっかけになる。

◼️地道な変化と、急拡大。そして土台づくり。
島に戻ることは、社会人になる前から胸の内で決めていた。きっかけは、ある日突然、車の中で交わされた父との会話だった。
「大学生の頃、一緒に車に乗っている時、父がふと『俺はうちの会社を日本一の砂型メーカーにする』って言ったんです。それを聞いて、なんか、戻らなあかんな、と思って」
直接「戻ってこい」と言われたことは一度もなかった。それでも、幼い頃から家業の苦労を見てきた分、父の覚悟がこもったその一言が自然と胸に刺さった。
そして、ホテルを退職。家業の取引先である岡山県の会社に2年間出向して製造業の実務を経験し、いよいよ実家に戻った。
だが、待っていた現実は想像以上だった。
道具がどこにあるかもわからず、探すだけで半日かかる。納期も案件によってバラバラで、在庫の数も把握できていない。タバコを吸いながら作業をする、昔ながらの町工場——。
「なんじゃこれは、っていうむちゃくちゃな状態でしたね」
社長の父は相変わらず営業一本で、現場にはほとんど手が回らない。ならば、自分が「内部を固める役割」を担うしかない。そう腹をくくった。
まず着手したのは、片付けだった。改善プロジェクトチームを立ち上げ、生産管理・品質管理の仕組みをゼロからつくっていった。
トヨタ生産方式などを学びながら、手探りで改善を実行していく中では、不安もあった。
「現場からはこれまでと異なるやり方に反発もすごくあったし、正直、自分でも正しいかはわからない。数字としてすぐ結果が出るわけじゃないから、しんどい時期もありました。
でも、己を信じてやっていく中で、他の経営者層の人も似たようなことをやってるって知る機会があって、あ、間違ってないんやって。そこから自信になりましたね」
取り組み始めて3年ほどで数字として成果も出始め、問い合わせの電話が1日70件にも及ぶ状況にまで伸びた。かつてない大増産の仕事も受けることになり、20人ほどだった従業員は120人にまで増えた。
「知れば知るほど、自社の技術力の高さ、歴史の重さ、作っているものの面白さに気づいたんです。技術自体はとても古いものだけど、半導体も、車も、船も、ここからできてる。アナログだけど、夢があるんです」
だからこそ、この技術を、会社を無くしたくない。そのためにはリーディングカンパニーになり、業界を牽引していかなければならない。そう思って、一気呵成に企業規模を拡大してきた。
「だから今は、急拡大後の反動がきていて、改めて土台を作り直しているところ」だという。
事業の規模は大きくなったが、会社の中身はかつてのままの部分も残る。組織をマネジメントする人材も不足している。各部門の連携度をもっと高めていかないといけない。
そんな課題感を抱きつつ、徐々に変化を生み出していくことで、下地ができてきた。これからは若い人材の確保や、技術の継承により力を入れていきたい。そのための仕組みや自分のあり方を考え続けている。
「しんどいけど、そうやって考えるのが、面白い。苦労する自分が好きなのかもしれない。だから自分を一言で表すと、『M』になるのかも」
そう笑う岡田さんの表情には、やはり親しみやすい穏やかさが宿っていた。

◇
岡田さんのお話をうかがっていると、随所に「意味」という言葉が出てくる。
なぜ信号機はあの色と配置なのか。なぜ日本の建物は上へ上へと伸び、ヨーロッパの街には広場や公園が多いのか。仕事で訪れたドイツで目にした光景ひとつにも、岡田さんは理由を探そうとする。
「土地が限られてる日本は、建物を上に建てる技術が発達した。逆に土地が広ければ、公園みたいな空間の使い方になる。何にでも、『そうなるに至った理由』があるんやろうな、って思うんです」
その視点は、人に対しても変わらない。
「悩んだ人とか、苦労した人ほど、成長すると思うんです。いじめられたことも、留学で吹っ切れたことも、全部、今の自分につながってる」
相手の小さな変化にもすぐ気づき、「今、絶賛成長中やな」と笑って見せる岡田さん。その眼差しの奥には、かつて自分自身が誰かに助けられてきたからこその優しさがにじむ。
なぜ、なぜ、なぜ。
それを突き詰めて、物事の意味を自分なりに解釈して落とし込むことは、この世界を平たく、安定的に、冷静に、捉えることなのかもしれない。
岡田さんのお話をおうかがいして、そんなふうに、感じました。

「経営者はしんどいことも多いですけど、ありがたいことの方が多いんちゃうかな、と思います。人が入ってきてくれる。会社を信じてくれる。だからこそ、その人たちを幸せにせなあかんっていう責任もある」
なんとなく、では片付けない。意味を探しながら、工場を、組織を、そして自分自身を整えていく。
そうやって積み重ねられてきた岡田さんの穏やかな笑顔の奥にある芯の強さを、ビシビシと感じた取材でした。

【関連サイト】
・岡田シェル製作所
・淡路島ブリッジ
株式会社岡田シェル製作所 【淡路市】 | 会社情報 | 淡路島ブリッジ 淡路の会社、あつめてみた。 【国内トップクラスの技術・生産能力を持つ砂型メーカー】日本が世界に誇る油圧機械、ターボエンジン、大型船舶エンジン……。当社 awajishima-bridge.jp
Writer
ぽっぴん
滋賀県出身。
読売新聞で新聞記者として勤務した後、独立して現在はフリーのフォトグラファーでライター。関西を中心に色んな写真を撮ったり、文章を書いたりしています。好きな食べ物は「ばーちゃんの手作りカレー」。
岡田将武さんに会いたイイネ!
この記事の 岡田将武 さんに、記事の感想や、会ってみたい、一緒に働きたいという熱い思いを運営を通じて伝えませんか?
岡田将武 さんに会いたい →
